【DEATH STRANDING_感想】「繋がらない」という選択肢は選べない、のであれば…

DEATH STRANDING

プレイした上でのストーリーについての感想であり、あらすじや考察ではありません。ネタバレ的な話はほとんどありませんが、ストーリーを最後まで楽しんだ方が読むことを前提としていますので、ご注意ください。

「繋がる」というメインテーマと重なる時代背景

このゲームのメインに据えられたのは「つながる」ということ。デスストランディングという現象によって分断された世界、バラバラになったアメリカを舞台としています。

ゲームプレイを通しての主たる目的は、バラバラになったアメリカをつなぎ直すこと。主人公である伝説の配達人サムは、文字通り「その足」でアメリカ全土を渡り歩き、物品、通信、人々との繋がり、様々な側面での「つながり」を広げて行く物語となっています。

分断される世界をつなぐということ。

世界全体を眺めれば、世界がひとつになったことなんて唯の一度もなく、世界はいつの日もバラバラに分断されている…とはいえ。相対的に20世紀末頃は、「比較的に平穏であった時代」だったように思います。日本から眺めれば、ですけどね。

その後、様々なことがありましたね。「テロ」という言葉で世界がひとつではないことを痛感した日も有りました。ミサイルが日本近海に飛んできているのに、素知らぬ顔で通勤をキメる日も有りました。大国の長が過激な手腕を発揮した日も有りました。

そして、そもそも人間の問題ではない、感染症という存在が、我々の日常をも一刀両断に分断した日々は記憶にも新しいですね。テレワークやリモートという言葉が急加速し、画面越しの相手に向かって交渉を行い、「姿は見えるが現実には目の前には居ない誰か」とやり取りをすることが本当に日常となりました。

このゲーム、発売は2019年ではありますが、この規模のゲームは数か月で作成されるようなものではないことを考えると、開発はもっと以前から進められていたのでしょうから、この日常と本作との「接点」は偶然の産物ではあるのでしょう…が。

このあまりにタイムリーな偶然は、何やら運命的なものさえ感じてしまいます。

「つながる」ということの功罪

このゲームの特徴として、各チャプターのタイトルがほぼ全て「人名」であること。登場キャラクターの一人一人に焦点があてられていること、があります。それぞれの登場人物が、ひとと、世界と、どうつながっているのが描かれる…のに。ゲームプレイの中で、登場人物そのひと本人と「リアルで相対する」場面はほとんどありません。

ね、ZoomとかTeamsだよね。まるでリモート会議よ。仕事思い出したわ。

何だかこうしたやり取りがいちいちリアルなんですよ。配達の依頼だったり、納品に訪れた時の対応だったりが全部これ。仕事の依頼や申し込みはオンライン、良くて通話やリモート通信で、対面でやり取りすることなんて本当に減っている。

それは元からだとしても、宅配便だって置き配が一般化した今、荷物の受け取りだってひとと出会うとは限らないわけで。何かを頼まれて、その依頼を完遂して、誰かと誰かをつないでも、そのどちらとも実際に顔を合わせることはない。時代ですねぇ。それが妙なリアル感を演出していました。

この「つながる」というキーワードに対して、皆さんはどう感じるでしょうか?

人間は十人十色、完全に同じ考えのひとは2人と居ない世界。「つながりたい」ひとが居れば、私の様に「つながることが苦手」なひともいる。つながることで出来ることはたくさんあるけれど、つながることで起きてしまう悲劇もたくさんある。本当にたくさんある。

そもそも、世界はつながるべきなのか、つながるべきではないのか?

ゲームに登場する人物も、それぞれの「つながり方」で生きていました。荷物さえ届けば、国のような共同体に属する必要はない、と考えるひとだって登場します。結果、サブクエを進めて行けばつながって行くんですけどね。

つながることで良い事も悪い事も起きる。それについて、この物語はどんな結末を迎えるのか、どんな答え合わせが待っているのか、ドキドキしながらゲームをすすめましたよ。けれど、この根源的な問いの答えは、最後まで明確な議題に挙がることはありませんでした。

ゲームとしては「つながることで幸せになりました」という物語を用意してくれました。

これはある意味英断だったと思っています。とかく物語として考えれば多彩に描かれそうな「つながることの悲劇」についてもサッパリ味な仕上げ方。賛否両論ある物事について双方を描き過ぎてしまえば、現実と同じ混沌に至ってしまうのは明白。

そう、これは何よりもゲームなのだから。楽しいゲーム体験が最優先であるのだから。登場人物の細かなリアクション、荷物を壊してしまっても怒られない優しい世界は、こうして出来上がったのではないでしょうか。

「どうつながるか」を考えて行くしかない、ということ

そもそも、こうして電気機器を駆使してネット回線に個人的な記事を垂れ流している時点で、「ひととひとのつながりなんてクソ喰らえ」なんて口が裂けても言えないですよ。つながらなければ「現代」は訪れなかったし、つながらなければこの先の生活もあり得ない。

一方で、残念なつながりという物も腐るほど経験して来ました。常識や慣習という悪魔の圧力。優しさという不可避の暴力。ド陰キャということもあって、不要なつながりなんて要らない、束縛されたくはない、けれど社会とつながらずに生きて行く力も無い。

つながるしかないのならば、問題はどうつながるか、ということ。

道具も何も無しに、裸一貫でひとが大空を飛ぶ事は出来ないでしょう。それを実現するために一生を捧げることなんて出来ません。それと同じで、「つながらないことが無理」ならば、そこは諦めて「せめてどうつながるか」を考えた方がまだマシというものです。

そしてこのゲームでは、様々な「さりげないつながり」があることもまた、示してくれましたね。

誰かが置いてくれたこのハシゴ、イイね!

こんなところに発電機を作ってくれたなんて、イイね!

アイ無手や素材を分けてくれてありがとう、イイね!

遠くに見える、同じように荷物を配達している人達、イイね!

現実世界ではイイね!数は見えないけれど、あらゆるものに本当はイイね!があるんだと思いますよ。

昼飯はコンビニのおにぎりだった、美味しかった。イイね!

店員さんが居たから買えたんだ、イイね!

毎朝そこに運んでくれるひとが居るからだよね、イイね!

運ぶトラックがないとそれも出来ないよね、イイね!

そんな目に見えないイイね!を、自分も無意識に送っているよな…ということは、どこかの誰かが、自分に対して見えないイイねを無意識に送ってくれているのかもしれないな…ってことは、そうやって我々はつながっているわけだ。

こんなつながりならさ…まぁ…ド陰キャな我々にとっても悪い気はしないよね!

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